教育改革2020

どうする・どうなる!?2020年。保護者視点で分析する教育改革。調べてわかったことを中心にまとめています。

道徳の特別教科化もはじまります

 2018年、この春、小学校で大きく変わることが英語教育のほかにもうひとつあります。道徳の特別教科化です(中学校は2019年度からです)。

 これまでも「道徳の時間」はありましたが、正式な教科ではありませんでした。そのため、他の教科の補習にあてられるなど、教員によって取り組み方に差がありました。また、主題やねらいがはっきりしない単なる生活経験の話し合いや、読み物の登場人物の心情の読み取りのみに偏った授業が行われてること等が課題となっていました。

  こうした状況をふまえ、「道徳の時間」を「特別の教科 道徳」として格上げし、授業が確実に行われるようにすること、そして、検定した教科書を使って体系的な授業をしてもらおうというのが今回の改革のねらいです。

 

 

 

▪ 目次

 

 

道徳教科化で感じる不安と理念の実際

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「道徳の特別教科化」と聞いてなんとなく抵抗感を抱く方も多いのではないでしょうか。「特定の思想や価値観の押しつけになるのではないか」「入学者選抜に道徳の評価が利用されるのではないか」といった不安を感じる方もいらっしゃると思います。

 

考え、議論する道徳へ

 特定の思想や価値観の押しつけについては、中教審が答申のなかで「特定の価値観を押し付けたり、主体性をもたず言われるままに行動するよう指導したりすることは、道徳教育が目指す方向の対極にある」と明確に否定しています。

 よりよく生きるため、ときに異なる意見をもつ他者との対話を通して、物事を多面的・多角的に考え、課題解決の力を養っていこうというのが真のねらいです。理念としてはとても納得感のあるものだと感じます。

 心配なのは、ただでさえ多忙で通常の授業準備ですらまともに時間のとれない先生たちが、道徳の特別教科化をきっかけに教科書まかせになってしまうことでしょう。使われる教科書は国の検定を受けるものですから、たとえば今後、政治家が検定に圧力をかけ、特定の思想・価値観を色濃く反映したものにした場合、現場の先生たちの運用によっては、結果として特定の思想・価値観の押しつけにつながってしまうリスクがあります。

 

記述式による個人内評価

 評価方法に関しても、定量的な評価は行わず記述式での評価になること、そして、入学者選抜には利用しないことが決まっています(ホッとしました)。

 ニュージーランドの幼児教育の評価方法が記述式であることは以前のブログに書きました。客観的なチェック式ではなく、記述式にすることで、子どもたち固有の文脈で得た学びの複雑さや豊かさを、解釈し捉えることが可能になるという考え方は個人的にとても共感するところです。

 「特別の教科 道徳」における記述式評価も同じ意味合いを持つことでしょう。そしてそれは、子どもたちひとりひとり違うペースで進む内的な成熟に寄り添う意味で重要なことです。と同時に、先生方の教育観にも大きく影響があるのではないかと思います。外側からの尺度で子どもたちに一方的に評価のまなざしをむけるのではなく、彼らの文脈で解釈する。このことはカリキュラム・マネジメントの考え方がベースになるこれからの小学校教育において重要なポイントになるからです。

 

それでも残る懸念点

 上述のように、「道徳の特別教科化」としてぱっと思い浮かぶ抵抗感に関しては一定の配慮がなされているように感じます。しかし、すべてがクリアになったかと問われると、個人的にはまだいくつかのわだかまりが胸に残っていると言わざるをえません。

 

表れなかった気持ちをどう評価する?

 ひとつめは、表現されたものでしか評価できないことの限界性をどの程度考慮できるか、という点です。

 意見の違う他者との対話によって、物事を多面的・多角的に捉えるきっかけを得ることはとても良いことです。ときにそれは、自分のなかで自明だったことを揺るがす体験となるでしょう。そうして、心の中がもやもやした状態になるはずです。

 もやもやしている気持ちを冷静に自覚し、的確に表現することは難しいことです。大人になってからでも上手くできないことはしばしばあります。認められなくて拒絶したり、うまく言葉が見つからなくて表現に落とせない、なんてことは誰しも経験があることではないでしょうか。

 そうした葛藤ゆえの停滞は、外側からはなかなか見えづらいものです。対話の場で言葉にできなかった気持ちや、ふりかえりの作文に落とせなかった気持ちを、先生たちはどのようにすくいあげ、評価していくのだろう、と純粋に疑問に思います。

 

何を考えるのかを決める自由はあるのか?

 もうひとつは、カリキュラムや教科書が体系化された反動として、問いの自由な発展が阻害されないか、という点です。

 例えば、人権を完全に無視するような非倫理的な意見が出てきた場合の対応で考えてみましょう。

 中教審の答申には「道徳教育においては、人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念を前提に」と書かれてあります。すばらしいことです。すばらしいことですが、人間の長い歴史をふりかえれば、それは決して当たり前に前提としてあった共通認識ではありません。

 小学校高学年~中学生の年代というのは、いわゆる厨二病(中二病)が顔を出す時期。世の中の体制に異を唱えることがカッコいい、あらゆる前提は疑うためにあるという、衝動的なイキり精神がフルスロットルになる子がいてもおかしくありません(最近では流行らないのかもしれませんが…)

 こうした前提の問い直しは、たとえ現代の倫理観から鑑みればイチャモンのような意見であっても大切な問いです。批判精神という面から考えるならば、視野を広げ、前提の正しさに確信をもつための歓迎すべき意見とも言えるでしょう。

 だからこそ、そうした逸脱やより深い問いを受け入れる懐の深さ・柔軟性をもてるだけの余裕がカリキュラムにあるのかが気になります。「考え、議論する道徳」を標榜しておきながら、なにを考えるべきかの道徳的価値があらかじめ決められているのでは矛盾が生じてしまうからです。

 

まとめ

 いじめの問題、いろんな背景をもった子どもたちの存在等、子どもたちを取り巻く環境で考えなければならないことは年々増えています。これまでのような「読む道徳」から「考え、議論する道徳」へのシフトチェンジは歓迎すべきことでしょう。変化による戸惑いもあるでしょうし、いくつかの懸念点もありますが、新カリキュラム開始後に蓄積される知見やその水平展開によって問題が改善され、改定学習指導要領に掲げられた理念が実現されてほしい、そう願っています。

 

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